2006年09月30日

その後の1ヶ月

 それからも私は不眠と、胸の痛みと動悸、時々襲ってくる過呼吸に悩まされた。食欲は全くなく、ただ薬を三食飲むだけだった。

 動悸は体が揺れているかと思うほどひどいものだった。腕もぶるぶる震えていて、字が書けなくなっていた。怖かった。

 夜の睡眠薬はユーロジン2rを2錠とハルシオンが2錠でたし、一睡もできないので、夜飲む食後の薬を寝る前に一緒に飲んで、眠気を誘ったが、それでも、眠れる時で2時間が限度だった。

 まだ暗いうちから目が覚めて起き出してテレビを見ても、空虚だった。電気代がもったいないし、主治医から「眠れなくても、横になっているだけで、体は休まりますからね。」と言われていたので、まんじりともしない夜明けを迎える日々が続いた。

 まだ暗いうちから新聞配達のバイクの音が響く。「あ、起きているのは、私だけじゃないんだ。」と少しほっとしたり、夜中に目が覚めて、いつも横に眠っている娘がいないのを確かめると、怒涛のようにあれる涙。涙。涙…。私はこのまま、ずーっと一人でいるのだろうか…。家を出た私が悪いのだろうか…。子供たちは何を思っているのだろうか…。寂しくないだろうか…。泣いてはいないだろうか…。父親に優しくしてもらっているのだろうか、私のように、怒鳴られてはいないだろうか…。


 私たちが知り合ったのは、私が東京の短大の1年生の夏休みだ。大学に併用していた短大だったので、大学の通信教育の人達がスクーリングで来る数週間の間、その人達が泊まる寮で、寮長のアルバイトを友達としていた。その中に同郷の人達がいて、仲良くなり、私のアルバイトがお休みの日に、近くでみんなでご飯を食べようと言う事になり、その子達がやはり同郷の男の子達も呼んで、今の合コンのようなことをする事になった。その時にただ一人他県の男の子がいた。同郷の子達と仲良くなって、連れてきたと言う。それが彼だった。

 女の子は私のアパートで雑魚寝をする事になっていたが、途中で気持ち悪くなってしまった子がいて、その子を私と一緒に送ってくれたのが、彼だった。玄関に続くキッチンに彼女を寝かせておいて、彼が布団を敷いてくれた。二人で布団に寝かせると、「それじゃ、また。」と言って帰ろうとした時、彼が電話の隣においてあったメモ帳を見つけて、自分の名前と電話番号を書いた。私も送ってくれたお返しのつもりでアパートの電話番号を書いた。それが私達の遠距離恋愛の始まりだった。私が19歳、彼が20歳の時だった。

 それから数ヶ月音沙汰がなく、秋も深くなってきたころ、大きな地震があった。私は地震が多い県の出身なので、たいして恐怖感はなかったが、アパートの友達たちはみんな外に出て怖がっていた。そんな時、彼から初めての電話がかかってきたのだ。「地震、大丈夫だった?」唐突だった。彼はまだ会社にいるらしく、会社の先輩数人に電話が回され、顔も名前も分からない男の人と話をあわせなければならなかった。

 それから数日後、彼からこの間の電話のお詫びと言って、連絡があった。先輩たちに合コンの時に撮った写真を見られて、からかわれてしかたなく電話をしたと…。そして、今度どこかに遊びに行こうかと言う話になった。

 彼の家から私のアパートまでは車で3時間あまり。高速道路も使うし、もちろんガソリン代もかかる。そこから遊びに行ったって、遊園地に行くとしてもただでは遊べないし、お腹もすく。彼はそのお金を全部自分で払った。そして、結婚して後々に「あの頃は、お前にずいぶん金を使った。1ヶ月の給料がお前のところに行くと吹っ飛んで行ったよ。」といやみを言われた。

 でも、ここで言っておかなければいけない事がある。付き合い始めた時私は、「支払いは、割り勘で行きましょう。でないと、長く続かないし、片方にだけ負担がかかるのはいい事ではないから…。」と言っていた。何度も。でもかっこつけて自分で払っていたのは彼のほう。「お金はね、男が払うもんなんだよ。」と言う言葉。お返ししたいわ。

 それでも付き合っている頃は、相思相愛だったと思う。半年か1年くらい付き合うと、彼の実家に招待され、それからは彼の家に泊りがけで遊びに行くようになった。年をとって生まれた次男坊を、ご両親はとても可愛がっておられた。私が行っても、とても良くしてくれて嬉しかった。

 付き合って約1年半、私は短大を卒業して、東京のあるコンピューター関係の会社に就職した。もともとそういう専攻の学科だったので、とても嬉しい就職だった。先輩たちも女性も沢山いて、可愛がってもらった。その頃はまだ、ウインドーズなどない時代で、主流はまだまだワープロだった。その会社で入社してすぐに、大手のF会社の社員研修に一緒に参加して、検定試験もとった。さあ、これからがんがん頑張るぞーと言う時に、彼から電話がかかってきた。

 彼も、アルバイトで仕事をしていた会社が倒産して、知り合いの人の紹介である会社に就職していた。そしてその勤務地が、実家から少し離れた所で、アパートで一人暮らしをするという。そして、私にそこに来てほしいと言うのだ。でも、そこから東京までは通勤できない距離であり、私は入社したてで、会社のお金で研修を受けて、検定もとらせてもらった。その恩を返していくのはこれからだと思っていた矢先である。上司からも「この仕事向いてるね。がんばってね。」と言われていた。

 でも、考えに考えた挙句、若気の至りで、彼の元に行く決心をしてしまったのである。それだけ彼のことが好きだったのだ。断れば、彼を失うという恐怖もあった。そして、大ひんしゅくの中、私はその会社を退社し、彼の元へ引っ越していった。

 だが、時が経つとこうも変わるものかと思うが、彼は、私が押しかけ女房のようにしてアパートに引っ越してきたと言っていたのである。

 この時の決断が私の人生を狂わせてしまったのかもしれない。
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2006年09月27日

別居決行!

H17.10.25 ついに別居を決行した。

 子供達が歩きでも来られるところ、でも近所の人とは会わないように少し離れた場所のアパートだった。二人の娘は、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。どんな気持ちで手伝っていたのだろう。三人で明るく買い物をしたり、お昼を食べたり、荷物をアパートに入れたりしたが、今日から私とは離れて暮らすことになるのだ。

 「いつでも何かあった時は電話ちょうだいね。」とは言っておいたが、夜寂しいからとか、怖い夢を見たとかでは電話はしてこられないだろう。父親への遠慮もある。

 夕方、家まで送っていく途中、先に泣いてしまったのは私の方である。長女が「ママ、ママは自分で自立するって決めた事なんだから、泣かないで頑張ってね。寂しくなったら、いつでも私達が行ってあげるからね。」そう言ってくれた。次女は私につられて泣いている。

 私と離れて家に入った後、あの子達はどれくらい泣いたのだろうか…。きっと、私と同じくらい泣いたに違いない。(今これを書きながら…いつもこのブログを書く時はそうなのだけれど、涙が止まらない。とめどなく流れてくる。)

 一人暮らしをはじめても、病気はすぐに良くなるはずはなく、毎日激しい動悸と、体のだるさ、熱っぽく頭痛が治まらない。一人になったからには生活費も必要だ。でもこの体調では働くのは無理だ。母に相談すると「今は休む時と決めて、ゆっくり体を治しなさい。」と言われた。実家に帰る事も考えたが、せめて、子供達が成人するか、大学を卒業して社会人になるまではそばにいてやりたい。男親には言いにくい事も出てくるであろう。

 別居して、1週間程たった早朝、私はいつもと違う胸の痛みに目が覚めた。息苦しい。以前から、時々この痛みがあったが、かかりつけの内科の先生に、喘息気味だと言われていたので、そのせいだと思っていた。なので、心療内科ではなく、その内科の先生の所に朝一で行った。もちろん車などないので片道40分の道のりを歩いて行った。

 病院について受け付けで「今日はどうされましたか?」と聞かれ、「朝から胸が痛くて…」というと、2〜3人の看護婦さんが出てきて、すぐに奥の処置室に通され、血圧と心電図と、血中酸素を測られた。

 先生が見に来てくれたが、急を要する事ではないと判断してか、順番が来るまでベッドで寝かせておいてくれた。

 結果は”パニック障害”。先生が言うには、心電図自体に問題はないが(不整脈とかがないという事)、脈が通常の倍の速さで打っている。「典型的なパニック障害ですね。」と言われた。その先生には前からうつ病で薬を飲んでいることも伝えてあるので、特に薬は出さないけれど、心療内科の先生とよく話をして下さい。と言われた。

 私はこのところの一連のことをかいつまんで話した。原因はそこにあると思うと言われた。私はその足で、いつもの心療内科に行く事にした。その内科から歩いて30分以上はかかる。私は痛い胸を押さえながら、必死に歩いた。

 心療内科の先生は、やはり”パニック障害”と診断した。そして薬が増えた。夜全く眠れないので、睡眠薬も2倍の上限まで出してくれた。「それでも、環境が眠れなくさせているのですから、3〜4時間眠れれば良しとしてください。落ち着いたらまた眠れるようになりますからね。」と言ってくれた。

 そして私は、市役所の精神福祉課に行き、精神障害者の手続きをして、それが通り、精神障害者3級の認定を受けたのである。

 夫からは何も言ってこない。らちがあかないので、知り合いの女性議員さんに相談に行く。その方は夫のことも知っており、夫の実家の人たちも知っている人だ。でも、私の泣きながらの訴えに「慰謝料をもらって、生活費ももらいましょう。話し合いの段取りは私が組みますから。とにかく体を治して、頑張りましょうね。」と優しい言葉をかけてくれた。ありがたかった。さすがは女性議員。女性の気持ちがよく分かってくれるなぁと感謝の思いで帰路に着いた。後で裏切られるのも知らずに……。

 その女性議員の段取りで、もう一人年配の男性も交えての話し合いになった。事前にその方と三人で会っている。夫もその方と会って、話をしているようだ。そして四人での話し合いになった。女性議員が「言いたいことを言ったほうが良いわよ。」と言うので、私は、今までのことを全部泣きながら話した。夫も良く覚えていないが、何か言っていた。そう…、「病院に行くたびに医者から、3ヶ月辛抱してください。そうすれば良くなっていきますから…。と言われたが、何度病院を変えても、3ヶ月たってもちっとも良くならない。」と半分怒ったように言っていた事は、おぼろげながら覚えている。私と夫の話を聞いて、女性議員とその年配の男性の出した結論は、1ヶ月くらい猶予を持って、別居してお互いに考えてみる事だというものだった。

 その席でその女性議員の発言に私は驚愕した。「あのね、私のとても仲が良かった友達が遠い県に引っ越してしまってから、うつ病にかかってしまってね、動けない状態だったらしいのよ。それに加えて、旦那さんの暴力があって、とっても大変な思いをしたのよ。夜中に何度も電話があって、いろいろ話を聞いてあげたけど、ゆいちゃん、あなたはうつ病って言ったって、まだ良いほうよ。その人は動けなかったんだから。」と言うのだ。

 私はうつ病になって、5年が経っていたし、その間に動けなくて、這ってトイレに行った話を、たった今ここでしたばかりなのである。それに、夫が暴力を振るわないと言ったって、”言葉の暴力”と言う事があるのをこの人は、議員でありながら知らないのだろうか…。この人に相談した自分を恥じた。結局地元でもともと夫の実家の親兄弟と知り合いだし、私の見方になってくれるはずがなかったのである。ちなみに実名は出すのはやめておくがK党のT.M.という女性議員である。

 私は絶望のどん底に陥れられた気持ちがした。   byゆい
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2006年09月16日

もう一つのブログ…

こんにちは。ゆいです。このブログは始めに書いてある通り、去年の暮れから私に起こったことを、思い出しながら書いたり、メモに書いてあるものを移したりして書いています。

 でも、今の生活を他ブログに書いているのです。初めは一つのブログにしようと思っていたのですが、そうすると、読んでくださる方が混乱してしまうと考え、あえて、別ブログにしました。

 この当時のことを思い出すと、とてもつらく、こちらのブログはなかなか進みません。(ごめんなさい。)でも、もう一つのほうは、毎日本当に日記のように書いていますので、もし良かったら、そちらの方にも遊びに来てください。このブログから読み始めた人は、ギャップに驚くと思います。

  「うつ病闘病記(ゆいの場合) yui-mako-coro.seesaa.net/ 」  

 で見られます。

 そしてついでに、友達に影響されて始めた釣りのブログも時々書いています。釣りなど興味ないかもしれませんが、ここでの私とそのブログの私を比べてみてください。

  「ゆいのバス釣り初体験記 yui-yui-2956.seesaa.net/ 」

                           byゆい
posted by ゆい at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

別居して下さい。

H18.10月

 一睡もできない夜。動いていないと何をするか分からないので、お掃除をする毎日。激しい動悸。胸の痛み。止まらない涙。

 私は無意識のうちに、近所の不動産屋さんにサンダル履きのまま駆け込んでいた。
 
 ドアを開けると、8畳ほどのプレハブの事務所には書類の入った棚が壁に沿ってぐるりと取り囲んであった。ドアのすぐ左側にカウンターがあり、そう、50歳代くらいだろうか、ちょっと体格の良いメガネをかけた愛想の良い男性が座っていた。「いらっしゃい。」男性は私を見て、ただならぬものを感じたのか、椅子を勧め、お茶を出してくれた。

 私はなるべく興奮しないように、ゆっくりしゃべった。近所に住んでいるが、一人で家を出て、安アパートに住みたいので、探して欲しい。お金は母から借りたのである。保証人も母がなってくれるはずである事を話した。

 不動産屋さんはちょっと困った顔をして黙ったまま腕を組んだ。

「ん〜、あることにはあるけどね。そこは私の友達がやっているところだから、うるさいことは言わないよ。家賃さえちゃんと払ってくれればさ。でもねぇ。何年か前、奥さんと同じように来た女の人のアパートを紹介したら、その旦那さんがここに来て、『家の女房どこへやったんだ!』って大騒ぎになっちゃってさぁ。そこのところは大丈夫なの?」

「はい、今夜別居のことは頼んでみますから。それに、去るもの追わずの人ですから…。」

 私がそういうと、そのアパートの大家さんに電話をしてくれて、その晩私が夫と話して借りることになったら電話をすることにして家に帰った。

 その日の夜。お夕飯を食べ終わって後かたずけが済んだ後、娘二人はキッチンにいた。私は横になってテレビをいている夫に、テーブル越しから話しかけた。

「あのさぁ…。」 後が続かない…。怒鳴られると怖いから…。

「なんだよ。」夫は機嫌悪そうにそう言った。

「別居して欲しいんだけど…。」私は意を決してそう言った。

 しかし夫は、驚いた様子もなくテレビから目も離さず、起き上がることもせずこう言った。

「子供はどう言ってるんだよ。」

「夫婦の問題だから、まずはパパと話をしなきゃと思って…」私の声は益々小さくなる。きっと体も縮こまっていただろう。

「子供だよ、子供。子供に話をしろよ。」夫は自分の意見より子供にゆだねたのだ。

 私はキッチンにいた二人を呼んで、別居をしたい旨の話をした。まだ中学校1年生の次女は、泣いて嫌がった。でも、中学校3年生の長女は泣きながらも、「ママの好きなようにして良いよ。」と言ってくれた。

 夫はというと……。その話を聞いていたのか「子供がそれで良いなら別居でも何でもすれば良い。」と吐き捨てるように行った。

 夫はその間、一度も起き上がって私に向かい合ってはくれなかった。横になったままテレビから目をそらさずにいた。

 私は、夫と話がしたかった。もちろん子供とも話し合いは必要だったが、夫がもしかしたら止めてくれるかもしれない、やり直そうと言ってくれるかもしれない、優しい言葉をかけれくれるかもしれない。そんな一縷の望みを持っていたのに……。

 私はとにかく夫の家から出たかった。出ざるを得なかった。でなければ自ら命を絶つに違いない。早かれ遅かれそうなる。でも、兄夫婦には任せられない母はまだぴんぴんしている。娘たちが思春期になって、誰にも相談できない事を聞いてやれるのは私しかいない。失恋するかもしれない。受験に失敗するかもしれない。若くして妊娠してしまうかもしれない。道を外れた仲間ができて取り返しのつかない人生になってしまうかもしれない。そう思うと、生きていなければいけないんじゃないかと思ったから私は、あえて別居の道を選んだ。

 家を出るまでの数日間は、夫にも今までどおりお弁当を作り、夕食の支度をし、家事をした。アパートに入れるようになると、安物の電化製品を買って小さな城ができた。

 「今日、家を出ます。」朝私がそう言うと、夫は無言で仕事に行った。
posted by ゆい at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月11日

一睡もできない……

H17.10月

 長女の言葉にパニックを起こした私は、それでも、何とか落ち着こうと努力をしました。でも、いつもの抗うつ剤と抗不安薬を飲んでも、胸のどきどきは止まりません。心臓のあたりが痛みます。あまりのどきどきに、心臓が口から飛び出るんじゃないかと思ったほどです。

 私はそれまでは、夜は何とか、睡眠薬を飲んで、4〜5時間以上は眠れていたのですが、その日の夜から、いつもの睡眠薬を飲んでも、全く眠れなくなってしまいました。

 昼間は昼間で、過眠状態で、眠くて体がだるくて、なかなか動けない状態だったのが、家中のお掃除を始めてしまうくらい興奮してしまいました。  それまでお掃除できなかった、キッチン、2階の子供部屋。廊下、居間、
トイレ、お風呂と、毎日毎日、夜は眠れずまんじりともできず、朝になると食事もとらずに大掃除です。

 自分がおかしい。変だ。そう思って、かかりつけの心療内科の先生のところへ。先生は私の話をよく聞いてくださり、「とにかく、落ち着いて対処してくださいね。」と言ってくれました。

 「そうだ。落ち着いて。落ち着いて…。」と思うのですが、誰に相談ができるものでもなく、私は、ある晩、真っ暗な湖に向かって車を走らせました。自分で行った事もない湖です。ましてや夜。真っ暗な山道。人っ子一人いない。街灯も無い。すれ違う車もいない。途中のコンビニでカッターを買った。車ごと飛び込めば死ねるだろう。そう思ってのこと。

 でも、その暗闇が怖くて、引き返していました。スタンドでガソリンを少しだけ入れて今度は、高速道路に乗りました。生まれて始めて高速道路を自分の運転で走りました。まだ私たちの時代は高速道路の講習は無かったものですから…。

 スピードを上げます。70q、80q、90q。初めてのスピード。100キロメートルに達した時、次のカーブで曲がらなければ死ねる。そう思いました。でもその時、後ろから来る車のライトがバックミラーにうつりました。「そうだ、後ろの車の人に迷惑をかけてはいけない。その人にだって家族がいるはず…」私は次のパーキングで車を止めました。

 せめて最後に、娘達の声を聞きたかったからです。でも、携帯は持ってきていないし…。手持ちのお金も少ない…。でも、電話をして娘の声を聞きました。「ママ、どこにいるの?帰ってきて。」二人は泣いています。その電話の向こうで、元夫は、「もういい加減に帰って来いよ。何時だと思ってるんだよ。おれは明日仕事なんだよ。もっとちゃんとしてくれよ。」と、いつものように怒っています。私の嫌いな怒鳴り声がします。

 その声を聞いて私が娘たちに最後の別れの言葉を言うと、二人の娘はどうしても帰って欲しい。と泣きながら懇願するのです。小銭がなくなり電話は切れました。

 それからしばらく私は車の中で睡眠薬を少し飲んだり、安定剤を飲んだり、手首に傷をつけたりしましたが、やはり娘の事が心配になり、高速を降りてユーターンし、やっとの事で家にたどり着きました。

 起きて待っていてくれたのは娘達だけでした。もうすでに夫は私の事を思ってくれていないということがまざまざと分かりました。娘たちが寝た後も、私は一人、眠れぬ夜を過ごしました。どきどきして止まらない心臓の音と、ずきずきして痛い左手首だけが私が生きている証でした。byゆい
posted by ゆい at 18:24| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月05日

夫の一言……

H17.10月

 長女の様子が変だ。何か私に言いたそうにしているが、何かが引っかかっていて、言い出せない様子。

 「どうしたの。何かあった?言ってごらん。」

私は長女を促すように、台所のシンクのドアを背に座った。長女も私の隣に座った。

 私が顔をのぞくと、ちょっと下を向いて、唇を噛み締めている。
 
 「言ってごらん。言わなきゃ分からないんだよ。日本人はあうんの呼吸なんていうけど、言葉に出さなければ分からない事が沢山あるの。これからはそういう時代なんだよ。」

 私の言葉に長女は意を決したように、重い口を開いた。

「あのね。父(小さな頃はパパと言っていたが、中学に入った頃から気恥ずかしくなったのか、父親の事をそう呼んでいる。)がね、夕べママが寝た後、私と一緒にテレビを見ていたんだけど…。私たちが成人したら、ママと離婚するって。」

 私は思いもよらない長女の言葉に唖然とした。頭をハンマーでガツーンと殴られたような感じだった。胸にやいばが刺さった感覚。とたんに私の心臓の動悸が激しくなった。息ができない。口が渇いて声が出ない。私の時間が止まった。

 しばらくして長女が「ママ、大丈夫?」と声をかけてくれた。私はやっとのことで「う、うん。大丈夫。」と言って、お夕飯の支度にかかった。

 でも、自分でも何をどうしているのか覚えていない。それが私の離婚劇の始まりです。

 私は今、他のブログ(「うつ病闘病記(ゆいの場合)」)で、今の生活のブログを書いていますが、これからこちらのブログでは、離婚から今までのとてもつらかった経験を書いていこうと思います。今も当時を思い出すと動悸がして、涙があふれてきますが、私は書き続けます。

 どうか、こんなちっぽけな私を見守ってください。byゆい
posted by ゆい at 18:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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